「映画の街盛岡」今昔物語
「盛岡映画今昔」(地方公論社)参照
1 御菜園の大規模開発
明治24年に開業した盛岡駅。しかし、駅から程近い「盛岡城」の西側一体は南部家所有の「御菜園」であり、手付かずであった。そこで、「盛岡百年の計」を案じた木津屋八代目の池野藤兵衛、分家の池野三次朗、三田商店の創業者の三田義正の三氏が、大正15年に南部家当主に直談判を行ない、2万坪を越える広大な水田の払い下げに成功。昭和2年8月南部土地㈱を設立し、大規模な開発を始めた。現在の大通・菜園・映画館通りである。
2 花の映画館通り構想
開発が行われた大通は盛岡初のアスファルト舗装に街路灯、銀杏並木というモダンな街で話題になり、各通りには「高砂町」「鶴舞町」「亀楽町」「老松町」など能楽由来のめでたい呼称も付けられた。だが、昭和7年の金融恐慌の煽りもあって、順調に開発が進んだわけではなかった。通りの完成に合わせて、三田氏が集客の起爆剤となる娯楽施設の集積を構想し、中央劇場を作る、続いて第一映画劇場、中央ホールも開館した。戦後には、日活、東映、松竹と競って直営館が開館し、まさに構想どおりの「盛岡映画館通り」が完成した。
3 映画館通りの最盛期
高度経済成長期に入ると、高速道路や新幹線の開通が進み、大通・菜園地域は百貨店・ホテル・オフィスビルなどが急速に増え、映画館通りとの相乗効果もあって、街の活性化につながり、名実ともに盛岡の中心街としての地位を確立した。 映画興行の最盛期は昭和30年代後半で、話題の映画も全て封切館として上映し熱気を帯びていた。 映画館通りを中心に15館もの映画館が営業しており、連日超満員まさに娯楽の中心であった。 しかし、昭和39年の東京オリンピックを境に、各家庭にカラーテレビが普及し映画受難の時代を迎える。
4 映画の街盛岡
その後、映画館通りの数館を残して市内の映画館は姿を消し、現在では5館14スクリーンであるが、設備改修、駐車場確保、各種割引など多彩なサービスで「映画の街盛岡」の魅力を盛上げている。
また、「みちのく国際ミステリー映画祭」から形を変え、現在も「もりおか映画祭」が開催されているなど映画文化が脈々と受け継がれている。